珠屋あーと広場『特集』「山田さんのはなし」

 

 昭和十年、山田さんは東京に生まれました。昭和十四年ごろに逗子に移り住み、以来ずっとこの街で暮らしていらっしゃいます。
 逗子小、逗子中を卒業した後、高校は横須賀高等学校に進学しました。そして『前から絵を描くことが好き」だったので、美術部に入部したそうです。実は横須賀高校の美術部は多くの有名な画家を輩出しています。
 「私が一年生の時に、三年生に島田章三(*)さんがいました」。当時から島田氏の絵は飛び抜けていました「石膏デッサンをやると、大方の人は真っ黒にしてしまうんですが、そのひとのデッサンは白いんですよ」。彼の絵は明らかに皆と違って見えたそうです。「みんなびっくりしましたね」。それを目の当たりにした山田さんの同級生は絵描きになるのを諦めてしまったとか。それほどレベルの高い美術部だったのだそうです。
 ある日、部室にある沢山の美術書を何気なく眺めていると、「グラフィックデザイン体系」という本に目が止まりました。全五冊、全ページにコート紙を使った、鮮やかなカラー写真の本だったそうです。その本は、一足先に隆盛を迎えた欧米のグラフィックデザインが網羅されたものでした。

 当時、昭和二十八、九年といえば、好景気のまっただ中、消費ブームの中で、掃除機、冷蔵庫、そして洗濯機が『三種の神器』としてもてはやされた時代です。日本でも商業デザインというものがようやく生まれようとしていた時でした。
 衝撃的で刺激的なその本を手に、「こんな世界もあるのか、やってみたいな」という強い思いが湧いてきたそうです。そんな時にさいか屋から宣伝広告に携わる人材の募集がありました。山田さんはデザインを志す決心をしたのです。
(*島田章三 1933年生まれ。昭和41年に愛知県立芸術大学に赴任。以来、名古屋を基盤に活動を続けている。キュビズムを根底に日常風景を描く。近年は生まれ故郷の神奈川県横須賀の海景を題材にすることも多い。2002年、日本芸術院会員に就任。)

 

 ところが、入社した山田さんを待っていたものは職人の世界でした。グラフィックデザインと言う言葉自体がまだ一般的ではなく、会社も洗練された欧米的な宣伝広告を求めてはいなかったのです。

 当時、百貨店の宣伝広告の主流は装飾、なかでも看板を描くことが重要な仕事でした。漆喰の天井が高い店内では、十分な空間があるため看板が有効な素材だったからでした。
 一口に看板といっても小さなものから、懸垂幕(外壁に吊るす巨大な垂れ幕)にいたるものまで、形や大きさは様々です。それを機械を使わず、すべて手描きしていくのです。

 一人前に描けるようになるまでにはずいぶん練習をしたそうです。最初は雑用からはじまり、道具の整理や作業場の掃除、お茶汲み、膠溶き、下塗りなどに明け暮れていました。が、ある日、先輩から字を描いてみろといわれ、筆をとったのですが手も足もでなかったそうです。
 そして先輩から「山田君、君はいつになったら字が書けるようになるのかねえ?」といわれ、山田さんはその日のうちに平筆を借り、家でモーレツに字を描く練習をしたのです。「ショックでしたね〜。だから新聞を見てね、活字の山でしょ、ゴチック体とか明朝体とか、とてもいい教材になるんですよ。」とにかく、先輩に親切に教えてもらえることなどなく、先輩のやっている事をジッと見て覚え、あとは自分で独学勉強するしかなかったのです。

 


 山田さんが入社した当時は、ふたたびの消費ブームの到来で、商品の製造が活発化し、より多くの商品を売るための宣伝広告が必要になろうとしていました。と同時に、デザインという言葉も世の中に広がりまじめます。
 「デザインという言葉が日本にはじめて定着したのは、昭和二十八年頃でしょうね。伊藤絹子がミス・ユニバースに入賞した頃ですね。はじめはファッションデザイナーという言葉だったかな?」。
 昭和二十六年、デザイナーの全国組織として、日宣美(日本宣伝美術会/1951-70)が設立されました。そして戦後復興から日本が急激な変貌を遂げつつある中、新人の登竜門として日宣美展を主宰し多くの人材を送り出し、また宣伝広告界にも多大な影響を与えました。宣伝広告は装飾主体から、ポスターや新聞広告にそしてより大きなメディアへと推し移ろうとしていました。日本グラフィックデザインの黄金期の始まりです。
 そのような時代の流れの中で、百貨店の宣伝広告にも変化が現れます。昭和三十七年(1962年)日本で初めてのファッションキャンペーンがおこなわれました。東洋レーヨン(東レ)と資生堂がうちだした『フルーツカラー』という共同キャンペーンです。生地の色と化粧品の色を企業側から仕掛けてゆく初めてのものだったそうです。

 その後『シャーベットトーン』など、このような企画が続いていきます。この頃から、山田さんもグラフックデザインを手掛けるようになりました。そして百貨店の宣伝広告はその後、80年代にかけて独自の路線をとりはじめたのです。伊勢丹がヤングファッション路線、高島屋がヤングミセス路線。西武も加わり、各社ともイラストレーターやコピーライターを特に重視した広告活動をしていきました。都内の有名店の動向に刺激されて、さいか屋も広告宣伝活動を重視するようになりました。
「さいか屋に入った頃、グラフィックデザインなんて言ったら、先輩になんだこの野郎!とか云われましたからね」。山田さんは、まさにグラフィックデザインの創世記、そして黄金期を体験されたのでした。

 

 さいか屋で管理職となった山田さんは、少しづつ好きな絵を描きはじめました。そんな時、ふらっと立ち寄った銀座で、ショーウインドウに飾られたEB-ARTの作品に目をとめました。

 ある建設会社によって壁装材として開発されたものなのですが、その石膏板に描かれた絵は紫外線で固まる特殊な樹脂のかげんで独特の光彩を放っていました。「ロビーで実演をしていたんですよ。やってみたくなりまして、一枚買い求めました。」山田さんの初めての作品はヨーロッパの古い街並の絵はがきを題材にセピア調に描いたものでした。緻密なタッチで仕上げられています。(Good Old Dayシリーズ:前回のあ〜とガーデンにその一部が掲載)「グラフィックデザインで細かい仕事をしていたおかげです。」と山田さん。
 最近はスケッチに出かけたり遠出した時に撮りためた写真をもとに作品を作られているそうです。「技術的に新しいことにも挑戦したいですし、工芸的な感じの作品を作ってみたいと、いろいろ考えているところです」新しい作風がうまれるのでしょうか、楽しみです。
山田さんが主宰されている教室におじゃましたとき、生徒さんたちは真剣に作品づくりに励んでおられました。「私はどちらかというと生徒さんの作品に手を入れる方ですね」。一回一回の教室で「できるだけいい作品を残してもらいたい」からなのだそうです。
 生徒さんが技術的に難しい場面に出会ったり、気持ちが途切れそうになったりしたときも、じっくりと丁寧に指導されていました。「最初から最後まで気持ち良く描きあげることなんてないですよ」だからこその達成感は格別というもの。
 生徒さんたちが長く続けている理由の一つなのかもしれません。生徒さんの一人がこんなことをおっしゃっていました。「絵を描きあ げてから、樹脂をのせて焼き上がるとまったく別の物みたいになるんです」これがEB-ARTの魅力なんですね。

 EB-ARTが生まれてまだ20年ほど。多様な表現が可能な素材です。現在、沢山の愛好者の方々が試行錯誤しながら作品づくりをされています。これから先、今までに見たこともない作品が生まれるかもしれません。
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