僕は四分の一日本人“ミミの病気”  MTW005/2003/July
 悪性リンパ腫、ホジキン病を克服するまで一年と二ヶ月余りが経った。あと、もう四週間(月曜日〜金曜日まで)放射線療法を受けて、一応治療が終わる。悪性リンパ腫は、白血球のリンパ球が癌化した悪性腫瘍で、リンパ節が腫れたり腫瘤ができる病気である。
 突然、直径4cmのしこりを発見してベルリンで著名な乳癌専門医、Dr.シエーネック氏の診断を受けるまで特別の症状もなく、シュツットガルト国立音楽大学で普通にレッスンをし、週末には夫マルティンの待つベルリンへ特急(ICE)か飛行機で帰り、娘の詩と孫のルカスが住むフライベルクまでアウトバーンを2時間半走らせて、詩の出演する本番を見にいったりしていた。
 今思えば週末に持ち運ぶスーツケースの重みが、背に特別感じられるようになっていたのは脊髄を侵し始めたホジキン病の故であったのだ。
 丁度冬学期が終わる2週間前で、私は七人の★受験生を持っていた。皆充分に用意をしてそれぞれのプログラムも出来あがっていたから心配はないのだが、試験の場に、受験する学生たちの先生である私がいないという事は不利である。それでも学生たちはそれぞれに精一杯頑張ってくれた。
★韓国人のスン・ニョンは大学院の卒業試験で1時間の公開演奏を大喝采で終わり、ビデオテープとともに合格の報告をしてきた。
★本科四年の課程を終えて大学院への希望を出していたアイスランド人のマルグリットとドイツ人のダニエラもそれぞれ50分間の公開演奏を行いGut,2点を得、又最高点24点のところ大学院に進むに必要な20点と21点を得て無事卒業試験を終えた。
★教育科から本科の声楽に移る試験を受けた美しく、やわらかい声を持ち、非常に音楽的なドイツ人のバリトン・パウルスとボリュームのある強い声をほぼ3オクターブ持つメッツォ・ソプラノのコルネリアも試験に合格。
★教育科の中間試験を受けたロシア人のイリナも問題なくパスした。

 黒矢は試験日の最後にやってきた。本科の声楽の中間試験を受けるギリシャ人とドイツ人の混血のナスタシアに飛んだ。大柄で声の質も美しくボリュームもあり、欲を言えばもう少し、知的な感性を研ぎ澄まし表現することが出来れば、キャラクターのある役をオペラで演じ、歌曲にも深みが増すであろうと思うが、ムゼッタのアリアの高音がきちんと当たらなかったと言うだけで、中間試験にパスしないと云う事は考えられない。理由は他にあった。
 数年前に私は彼の生徒を中間試験で合格に反対したのだ。楽器となる骨組はしっかりしてはいるのだが舞台に立った姿に魅力はなく声にも張りがなく息が洩れてテクニックも出来ていなかった。又演奏した曲も小曲でソプラノであるのに高音もきかせず、中声は全く鳴っていなかった。
 2曲の演奏が終わると彼は“はい、ありがとう”と云った。私は“あら、もう終わり?バッハを聞かせてください”と申し出た。それでも“いや、結構”と生徒を試験場から出した。他の教授や講師の試験官たちは議長(彼)の顔を見つめただけで一言もコメントしなかった。それで私も荷物をまとめて部屋を出、試験の記録書にサインをしなかった。
 《ドイツの音大では職業演奏家又は教育者としてその才能を持ち合わせ、通用するか否かという点で入学試験が行われ、2年後、中間試験でそれをもう一度検討する。日本の私立の音楽大学で行われているような趣味として音楽をする程度では入学できない。審査員の規定はどの卒業試験にも最低3人の教授がいなければならず、教育科の卒業試験には文部省から議長を務める者が試験に立ち合う。本科の卒業試験は一般公開で学長が議長を務める》
 その仕返しがナスタシヤにやって来たのだ・・・幸い、彼女の父親は彼自身、医者になろうか、声楽家になろうか悩んだ末医者になったのだが、今でも美しいテノールの声を磨きながら、音楽界の難しさにも通じていて「大学を出ればいくらでもそんな事は体験するのだから気にする事はない。」と娘を慰め、私にも丁寧なお見舞い状が届いた。
 私の病状はすでに最後の段階・期に進んでいた。2%しか回復のチャンスはないと聞いても不思議に動揺はなかった。Dr.シェーネックは乳癌ではない。ホジキン病であるからその専門医Dr.リース(Dr. Prof. Riessは治療に当たりながら大学で講議を持ち、国内ばかりでなくヨーロッパの各地で公演を行っている。)に紹介しよう、と直接病院に電話を入れ手はずを整えてくれた。
 ヴィルショー大学病院(通称Charite'.シャリテー)に入院し治療が始まるまで運の良いことに3日ほどあり、その間に詩の演奏会カール・オルフの“カルミーナ・ブラーナ”がはいっていた。腫瘤を2つ取った手術直後で主人は心配したが私はどうしても行きたかった。
 「赤いイブニングを着るのだけれど合うネックレスがない。ママ何か見つけてくれる?」と何も知らない娘は云った。もうすぐ劇場も夏休みに入る。シーズンが終わるまでは詩の耳には入れまいと思った。Dr.シェーネックの診療所のあるクーダム銀座通りでイタリア製の美しい赤い丸い石の連なったネックレスを見つけた。車をいつもよりゆっくり走らせフライベルクに向かう。演奏会場となったニコライ教会は満員で会は大成功であった。その晩、私は詩に病気と入院の予定を知らせた。
 自分が病気になって初めて私の知らなかった世界を見た。まだ若く、人生の大切な時期、キャリアの真中にあって病気と闘っているもの。小さな子供が泣いている、親の胸の痛みはいかばかりであろう。同情の念で胸が一杯になる。
 詩はオペラハウスが休暇に入るとベルリンに車を走らせてやってきた。夏休みにはオ−ストリアのヴィラッハでのフェスティヴァルで現代物の作品を演奏する事が決まっており、その準備をしなければならないであろう、と私の気持ちも落ち着かない。
 “いつもママに助けてもらうばかりでいたでしょう。ついに、恩返しが少しだけできるわ”と云って考えられぬ程の愛と思いを込めて私の看病に当たった。孫のルカスには私の病名や病状は云わなかった。
 詩はもう一人で歩んで行ける、一番心配なのは主人のマルティンである。もし私がいなくなったら彼は生きて行かれるだろうか!
 もう、菌は全滅したかと思うと、又目が見えなくなったり、半身が動かなくなったりして何回もその都度、病院に運ばれた。医師達は二度ほど、もう駄目だと匙を投げたと言う。
 脊髄に薬を注入する為の針は経験を重ねても難しく、神経に全く触れず一回で入るということめったにない。勿論こちらもその痛みを考えると正直なところ怖い。Dr.リースは私の承諾を得て、若いドクターにこの役を任せる。私が怖がれば益々経験の浅い彼の緊張を高め、かえって失敗をまねく。平静を装い「さあー」と促す。こんな話を日本の妹にすると“やはりあなたは教育者ね!”と感心する。
 私はルカスの冬の休暇に一週間の旅行をプレゼントした。ルカスはスキー学校に入り大喜びをして習い始めたのも束の間、首の筋が動かせなくなって救急車で病院に運ばれた。脳に何か障害があるのではと大げさな検査をされ血液を取ったりしたのだ。
 その時ルカスは“ミミは勇気のあるおばあちゃんだ!僕もミミに負けない。”と病院からカードを書いてきた。医師たちも“こんな強い人は見たことがない”と何度も言ったが何が強いのか私には解らない。
生徒や仲間、友人達からのおびただしい手紙、花束。マルティンや詩の愛を受けて感謝の気持ちで一杯である。
 日本から妹も飛んできてくれた。色々な日本食がパックされて小包みも届く。医療費は立派な家が建ちあがるほどかかったが、これもドイツの健康保険のお陰で何の心配もなく済み、<良い星の下に生まれた>と子供の時に言われたことを思い出していた。
 治療の総てが終わったとはいえ、一年と二カ月も薬ではあるがホジキンスを滅する為の色々の放射線であったり、水溶液であったりあるいは固まりであったり・・・物体は毒をも併せ持ち、別な考え方をすれば、ホジキスと同時に私の正常な細胞までもずたずたに傷つけた。これからはゆっくりと、これと立ち向かう。
 ともあれ、いろいろなことに守られていただいた命である。身の周りの親しい諸先輩の年まで20年はある。また元気になって誰かのために何かできるであろうか?
 こんなに皆からいただいて本当に感謝で一杯。“ルカスも感謝のお祈り忘れては駄目よ”といった。ミミ、皆がくれるって、“ミミはどんなにたくさん皆にあげてるか知らないの?僕にだけでもいつも、いつも、ポケモンが3つでしょ!”
 詩と私は笑いころげた。四分の一日本人、もう少しましな返事をくださいな。
写真上から
●フライベルクオペラ劇場での公演《ばらの騎士》オクタヴィアン役のジルケ・リヒタ、ゾフィー役の詩とお小姓役のルカス
●入院した私の分をおぎなって生徒たちを助けたコレペッティトーア<ピアニスト>たち(右から中川佳寿子、エバハルト・ロイザ、カール・デイヴィス、ロベルト・ヒラー、敬称省略)
●Dr.リース教授と国立大学病院(Charite'.シャリテー)
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僕は四分の一日本人“ミミの病気”